心の声

ふと気になる事があったのでしるしておく。
この前の日曜、デートの約束をしていた日の占い。
思いもかけないような人間関係に変化が。迷いがしょうじるかもしれないけど心の声に従ったほうが結果OK。
おいらはピンときた。これは彼から別れ話があるかもな、と。
だって最近会うのが苦痛で苦痛で体調崩すぐらいなの。
予想はあたった、彼が突然もう私とつきあうのは無理だと言う。
この前までもっと一緒にいる時間が欲しいだの、言ってたくせに何なんだコイツは。。。まあでもやはり彼も感じていたんだろう。私の愛のなさを。しかもコイツ、きれやすいことが判明。食事の最中なんて手が震えちゃってるし、なんだかわけのわからんことをブツブツ言ったりこええんだよ、おまえ。
心の声はそうだ、別れろ、と言っている。
が、しかし。なんてあまのじゃくな私。ついつい改善するよう努力しましょう、なんてぬかしてしまった。
その背景にはもちろん将来への不安、家庭の事情などもあるんだけどさ。
正直どうしたものか迷っている。私の心には最愛の人が常にある。それだけで彼に対して裏切っている。私の最愛の人、S氏とは想いは通じているものの、結婚はできないだろう。んでもって今の彼とつき合った次第である。大変失礼で勝手な話である。が、私としてはそうすることでS氏とのことは諦め新しい未来を歩もうという目論みだったのだ。けれど心は相変わらずS氏に囚われそれどころか日に日に想いは増すばかりだ。何故私を愛してくれる人を愛せないのか。業の深い話だぜ。
どうも私の場合マインドとハートが一致しない。スピ的に言うならハートに従うべきなんだろう。あの占いも何かのメッセージだと思う。だってピンピンピーンってきたから。でもじゃあ別れましょうと言う勇気がない私。これぞだめだめ人間の真髄かと思う今日この頃である。
S氏のすべてが好きだ。子どもみたいなところ、感性が鋭いところ、天真爛漫なところ。。。あげたらキリがない。Sと一緒にいるだけで本当に幸せなのだ。ルナといたときのように。Sが私に触れるだけで心も体もとろけてしまう。Sの腕に抱かれると魂のレベルで安らぎと幸せを感じてしまう。そんな人と出会えただけで感謝しているのだが、人間欲は深いものでやっぱりもっともっと、となってしまうのよ。
でね、最近潜在意識をつかってなんとかならんのか、この状況、と思いつきいろいろお試し中。さて、彼とのことはどうするか。

悩んでも答えが出ない時がある。

そんな時は大河に落ちた木の葉のように
あらがうことなく大きな流れに身を任せ
たゆたとうとも沈まずに
流れてゆくのがいいのだろうか。

それとも

捕らえられた鼠のように
我が身の力の全てをもって
愚かなまでに窮地を脱する
ありとあらゆる試みをするべきなのだろうか。

友人は宝

またまた久々の更新である。この8ヶ月の間に沢山の事象が私の前を通りすぎ、また時には立ち止まり私の心を騒がせた。
そんな中、ここ1ヶ月の間に起こった出来事は私の心をいとも簡単にぽっきりと折ったのだ。いきなり闇の深淵に突き落とされた私はすっかり自分を見失っていた。恋愛、結婚、仕事、人生への希望、自他への愛情、、、ありとあらゆるものが私から奪われ、最早私に残っているものは食欲ぐらいになってしまった。少し前まではダイエットに励み即身仏を目指していたが、いよいよ目指すはマツコ・デラックスかというときに、私はひとりの友人に救われたのだ。

友人の名前を仮にカオリンとしよう(実名に限りなく近いが)。彼女は多忙にも関わらず、心が折れて亡霊のようになった私の為に懸命にアドバイスをしてくれた。また、彼女のアドバイスは、カウンセラーとかで食えるんじゃないかという程、的確であった。そして恐らく言いにくかったであろうことも誠意をもって懸命に私に伝えてくれた。だいぶ落ち着いた私は最後に心からの感謝と方向性がみえてきたことを告げた時、電話口の向こうで彼女が涙声で良かった、と呟いた。そして気が緩んだのか泣き出したのだ。「ただ良かった。」と言って。。。

私はその心にただただ撃たれた。真摯に人を想う気持ちのなんと美しいことか。彼女の涙は私の心を揺さぶった。世の中まだまだ捨てたもんじゃない。家族だって私が死んでも涙を流すかどうかというダメダメ人間の私にも、まだ涙を流して心配してくれる友がいる。本当に心を動かすものとは人の心だと改めて実感した。
カオリンある限り、私は明日を信じよう。

今のこの友への心境、それは走れメロスだ。この友の為なら私は命も賭けるだろう。死んでも背後霊となって末代まで見守ってゆく所存である。

久々に更新である。

なんじゃーかんじゃーと10ヶ月ぶりの更新である。当たり前の話だが311の震災をはじめ、多くの物思うことがあったのだが、そこはスルーして今大事件が勃発中である。愛猫ルナが10月25日に突然痙攣発作で倒れたのだ。幸い命に別状はなかったものの、脳に異常があるのではないかとの診断。18歳の老猫なのでMRIなどの検査はせず、薬で発作を抑え様子をみることにしたのだが、それから早2週間。かつてこれまで血圧のアップダウンが激しいことがあっただろうかという走馬灯のような2週間。いまだ楽観できず看護生活が続いているが、私のほうが先に死んでしまいそうだ。
多くの友人が励ましのメッセージをくれた。感謝。
いろんな局面に直面して思ったことがある。人間万策尽きると神様仏様に頼るということだ。日頃の自分の無体な行いは棚に上げまくり神様仏様にすがるのだ。
あれは5日の土曜日。様子が急変した愛猫。ぐったりと立つこともできなくなり、水もご飯も食べられなくなった愛猫をみてさすがにこれはもう。。。と覚悟を決めた。あと私ができることは見守ってやることだけだと。午前2時。疲れた体を横たえた時、昔読んだある記事が突然頭によぎる。それは「延命十句観音経」。短い十句からなるお経でこれを千回、1万回唱えると命が助かるというありがたいお経だ。すぐさま飛び起きネットでお経を調べ朝までかかって私はひたすらお経を唱えた。すると!お経を半分ぐらい唱えたところで愛猫が立ち上がりベッドに行きいつもの定位置ですやすやと眠り始めたのだ。さっきまでは苦しそうにしていたのに。「おおおおお!」私は必死になってお経を唱え朝を迎えた。愛猫は眠りについたままだ。私も疲れ果て眠りについた。そして翌日ー。めきめきと回復しているではないか!自分でトイレに行きもうれつにご飯を食べ始める愛猫。最期のあいさつをした家族もひっくり返るぐらいの回復!
恐るべし、いやありがたき延命十句観音経なのだった。

最近の変化

昨年末から今にいたるまでの私自身についての変化を記しておこう。それは、

なあーんにもしたくないのだ。


とにかくすべてにおいて、やる気がおきない。めんどくさい。
これについては「前とかわらないじゃない。」という意見が聞こえそうな気がするが、そうなんだけど、違うんだなあ。

仕事や趣味にやる気がでないとかいうレベルではなく、日常生活すべてがめんどい。化粧するのも服を着るのもお風呂に入るのもめんどくさいのだ。食事にいたっては以前は食べたいものがアタマに浮かぶと、それを食べないと一日が終わらないぐらいだったのに、今なんて白米があればそれでいい、ぐらいなもんだ。しかもおかずにこだわらないぶん、白米に意識が集中するのか以前より格段にご飯が美味しく感じる。こうなると、美味しいものを探して右往左往している人たちが、なんだか気の毒になってくる。ああ、寝て起きて白米を食べ、幸せを感じながらまた眠る、という毎日が過ごせたらなんて幸せなのかしらー、と思う自分がさっぱりすっかりわからない。
もしかしたら善良なる私の知人の中には繊細かつ天才肌の私が世間のプレッシャーに押し潰されそうになっているのでは、と心配する人がいるかもしれないが、そんなことはない。天才はそんなことは気にせず生きているものだ。ふおっふおっふおっ。

しかし、以前のアクティブな私はどこにいってしまったのか。鋭く光る眼光で迅速かつ的確に仕事をこなし、これまた迅速に的確に周りの目を盗んで仕事をさぼってプライベートも充実させ、数多くの友人達に囲まれ、寝る間もないぐらいに毎日を謳歌していたわたくし。今は見る影もないのだが、別に現状に不満はなく、むしろ平穏なのでこのまま自分の変化を見守ってゆく所存である。

家庭菜園にトライ。

枯れ木も山の賑わいのベランダと決別し、家庭菜園をやることにした。きっかけについては深ーいいきさつがあり、今の日本の深淵に触れる事になるのでここでは割愛する。

とりあえず数種の野菜と、野菜ばかりでもあれなので、チューリップの苗を植えた。植える前から気になっていたことがある。それは、今が冬の真っ只中であり、一般的には植物が育たない時期である。なぜ春まで待てなかったのか、はなはだ遺憾に思うが、待てないのだから仕方ない。思いたったが吉日なのである。

しかし、寒かったから結局春まで芽がでないのでは今植えた意味がないのである。計らずも「この冬の最中にいかに野菜をはやく生育し収穫するか。」という難題に果敢にも挑むこととなった私が見いだした方法。それは水耕栽培である。


先日のブログにも書いたが、最近すべてにやる気がおきなかった私が見出したひとつの光明、「水耕栽培」ー。なんだかすっかりじじいになった気分である。

もう一人の私。

世の中に自分にそっくりな人間が3人いるという。3人かどうかは知らないが、私にはどうやら少なくとももう一人の自分が私のしらないところで出没し友人に目撃されているようだ。
例えば友人から電話がかかってくる。
「昨日、銀座にいたのみかけたよー。」
「昨日?銀座?行ってないけどー。」
「え?でも紙袋提げて歩いてたのみたよ。服とかkazっぽかったし。。。」
「だって昨日は残業で終電ちかかったもん。」
「。。。白いバッグもって。。。歩き方とかそっくりで。。。」
そう。確かに私の紙袋使用率は高いしバッグも白だし歩き方も特徴がある。だが、確実に行ってないのだ。場所は違うが、これと同じようなパターンが何度あったことか。しかも不思議と私がよく行く場所で目撃されるのだ。最初は似てる人がいるんだろなーと思っていた。がしかし、違ったパターンが出てきたのだ。今までは私を見かけた友人たちは見かけただけで話はしていなかった。だからこそ「他人の空似」と思っていたのだが、なんと「もう一人の私」と話した人が出てきてしまった。

その人とは近いうちに食事をすることになっていたが、多忙で連絡ができずに気になっていた。ふだんならそのぐらいのことでは気にならず、メールとかきてもついうっかりと返信するのも忘れ、「なんで連絡しないー!」と怒られることが多いのだが、なぜ気になっていたかというと、その人にどうしても聞きたい話があったからで、全く自分勝手なやつである。

とにかく「あー、会って話を聞かなくちゃ!」と強く心で思っていたことが「もう一人の私」をつくったのかどうかは知らないが、私が預かり知らぬところでその人は「もう一人の私」に会い、食事の話をして別れたそうだ。

困るじゃないか。「もう一人の私」。勝手に話をするな。話をしたら誰とどういう話をしたのか報告するのが筋ではないか。その後、「もう一人の私」と話した人と会ったり、連絡した時に話のつじつまがあわず、まるで私が心神喪失な人のようになってしまう。困るから今後、誰かと会ったり話をしたりした時には報告に来い。
でもそうするとあれか?仮に「もう一人の私」が私に「こないだ、Bさんに会って映画みる約束したよん。」とか報告にきたとすると、ドッペルゲンガー現象でいう「もうひとりの自分に会った人は死期が近い」という法則にひっかかってしまうからそれも困る。私には前途洋々たる未来が待っているのだ。報告をもらうのはいいとして、死んでしまうのは困るのだ。

「もう一人の私」よ。報告はメールにしてくれ。